子どもの性被害に鈍感すぎた私たち

日本中、多くの人がなんとなく感じていたこと・・・。
ニュースの一報の後感じたことは、「まさか」ではなく「やっぱり」・・・。

未成年の少年に対する、ジャニー喜多川氏がおこなった性加害。
なかなかニュースにもならず、数年前「#me too」で大騒ぎしていた人たちも口をつぐむ有様。
嵐が過ぎ去るのを待ち、うやむやにされるのかと思っていました。

やっと報道が動いた現在ですが、正義の鉄槌には程遠く信用の毀損は免れません。

ハリウッドの大物プロデューサーが、女性に対しておこなっていた数々の性の強要は、「#me too」運動で勇気ある告発と問題の顕著化という意義をもたらしました。
一部「乗っかった」感のある人もいて、政治利用も甚だしく、支持しきれなかった私ですが、今回はその方たちが何故ダンマリなのか不思議でなりません。

しかし一般人である私の責任も、大いにある。
ジャニー喜多川氏がホモセクシャルであることはあちこちで語られていて、それ自体何ら問題はありません。
しかし未成年・・・しかも子どもと言っていい少年も中には居て、私も含めた多くの人が何らかの違和感や疑いを持って氏を見ていたことは確かです。
ジャニー喜多川氏の功績や才能を否定するつもりはありませんが、私たちはもっと子どもの性被害に敏感でなくてはいけなかったのではないでしょうか?

実話をもとに製作された映画「スポットライト」は、教会というタブーに切り込んで、神父による子どもへの性的虐待を取り上げスクープしたボストン・グローブ紙の記者たちが描かれました。
多くの子どもが被害にあっていて、中には自殺した被害者もいる。
大人たちの中でも私がとりわけ許せないのは、薄々感じていたのではないかと思われる被害者の親。

しかし私もその親と同じではないのでしょうか?
何か特異な、インモラルなことが行われているのでは・・・子どもたちを相手に・・・そんな感覚を持ちながら目を逸らしていたのだから。

比べるべきではないのかもしれませんが、例のハリウッドのプロデューサーの被害者は大人。
セクハラやパワハラに対してNOを言うのか、訴えるのか、ステップアップのために利用するのか、泣き寝入りをするのか、選択できる大人。
もちろん私たちは、訴えには応援や支持をいたします。

でも子どもには、盾になって声を出さなくてはいけなかった。
そんな国でなくてはいけなかった。
そんな人間でなくてはいけなかった。

取り上げないマスコミにあきれるのはお門違いで、その姿は私と合わせ鏡なのだから。
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